〔代表物語〕末永くお客様に役立つ工務店になる

兼業農家の長男として産まれる

昭和35年私は八鍬家の長男として産まれました。上に姉が二人おり三番目に跡取り息子が産まれたとのことで、だいぶ歓迎されたようです。かと言って特別扱いされて育ったわけでもなく、姉たちにはそれなりにいじられて育ちました。

家は決して裕福な暮らしではなく、母屋の隣にヤギ小屋があり小学生の頃はヤギの乳搾りが私の日課でした。

順調に乳を搾り、ある程度器に乳が溜まったところでヤギが後ろ足で器ごとひっくり返す始末。ヤギもその日の気分というやつがあるんでしょうが、私もまだ子供ですからヤギに苛立ちをぶつけるとヤギが反撃してくるのです、そうまさしくあの闘牛の構えで頭突きしてきます。結構怖い思いです。知ってました?ヤギの瞳って横長の長方形だって?猫は縦に丸型ですけど。当時は牛乳ではなく家畜として飼っている乳を飲んでいた時代です。両親はというと夏は農作業をし、冬閑期になれば親父は関東方面へ出稼ぎに出て、母は家を守り家族を養ってくれておりました。

高校進学を決める時親父から、「兼業農家では食っていけないからお前は勤め人になれ!」と言われたこと、

昔からプラモデル作りが好きだったこともあり、物を造るという観点から建築科のある高校へ進んだのでした。

高校は電車で通っており、姉たちは地元の高校でしたのでかなり羨ましがられましたね。当時「デンシャツウ」

って響きがちょっと一歩上いく?みたいな風潮がありましたからね。

建設会社の現場監督

高校卒業後、土木、建築を手掛ける天童市でも比較的規模の大きい建設会社に現場監督として入社します。最初の現場は金融機関の新築工事でした。6月中旬に着工、基礎コンクリートを打った後はひたすらコンクリートに水まき作業。あの年の夏はかなりの猛暑で炎天下の中連日、水まきでした。余談ですが、コンクリートの強度を増すには水がかかせないのです。日中は現場に出ているので、机での作業は夜です。プレハブの現場事務所には連日夜の10時くらいまでいるのが普通でした。現場隣の住人の方から親切に何回か差し入れを頂いたりしました。その節はありがとうございました。

会社の先輩方からの勧めもあり、自分のスキルアップと会社貢献のため一級建築士取得を決意をし日建学院に通う事になります。その時の現場が肘折温泉でした。現場から学校まで約1時間半、授業を受け自宅へ帰るのは

午後10時過ぎで、ほとんど寝るために帰っているような毎日でした。今思えば、若かったからできたこと、若さはお金では買えない尊いもとしみじみ思います。

半年間の勉強の末、お陰様で一級建築士の試験に合格しました。当時所帯を持ったばかりでしたが、伴侶の支えが大きかったです。

デザイン重視の建物

勤務していた建設会社では、一般住宅から公共施設など様々な建物に関ってきました。ある時、庄内地方の工務店展示場に伺った時衝撃を受けます。これまで自分が造ってきた木造住宅とは全く別物だったのです。

家を寒さ暑さから守る断熱材の素材、一棟の住宅に入れる量が全然違う。その工務店の代表は新木造住宅技術協議会(新住協)の会員でありました。会社の上司にこの工法を提案しますが、力不足で説得にいたらず、その頃の住宅事情はと言うと見た目で家を選ぶデザイン、外観重視の時代でした。

エアコン一台で快適に暮らせる

展示場を見て実感してきた私は、エアコン一台で全室ほんわか暖かさを感じるしかも暖房費が半分で済む暮らしを是非山形に実現させたい という思いに駆られました。モデルハウスを造り実体験してもらうのが一番いいやり方でしたが、それには断熱材の量はこれまでより多く、その分大工の手間もかかりさらにはコストもかさんでくる。しかもその当時会社は他の建設会社とのジョイントで中学校建設という大きな工事を請け負っている時期でした。

棟数をふやすだけでいいのか?

自分の思い描いていた住宅とはほど遠く、サラリーマンである以上会社が受注した住宅は何でも造らなければならず、他社設計やデザイン重視の物件が多く担当するたびに次第に罪悪感を感じるようになりました。

結局私は、38歳で会社を離れる事になります。

家族に自分の思いを話すと両親特に親父は「おまえの成功する姿をみでみっだいな。」と受け入れてくれましたが、家内は自営となると収入が不安定になるのを一番気に掛けていましたが、結果的に歩み寄ってくれる形になりました。間もなく1Kの小さなアパートの一室を借りヒロ・アーキテック一級建築士事務所を立ち上げます。その頃 闘病中であった家内の親父が一時退院の折、仕事場に訪ねてきて言ったひとことが

「キャラメル箱みだいなどごさいで。」(あまりの狭さに、キャラメル箱に見えたようです)

一目みておかないと気が済まなかったようで、口は悪いが人のいい魚屋の親父でした。

本当のプロとは・・・

一人でのスタート。暖かい家を造るためにいろいろな本を読みあさっていた時、多摩大学院教授 田坂広志先生の言葉に出会います。「家づくりは心の中にいる世界で一番厳しい自分という顧客を持つということ」自分に噓をつくということは心の中の顧客に噓をつくことになる。一棟でも多く山形の気候にあった家を造りたい、改めて痛感したのです。

共同出資で新しい会社設立

2年間一人で気密性の高い家づくりを試行錯誤を重ねてきましたが、経営面で採算が合わないと感じるようになります。仕事は外注のウエイトが大きく、そんな折、取引先の建材社長より共同出資で会社立ち上げの話を頂きます。熱の逃げにくさを示す値を専門用語でC値と言いますが、国の基準よりもはるかに良い値を出している住宅メーカーでした。工法自体、私の求めているものでしたので断る理由はありませんでした。

その社長と 株式会社ヒロホームを立ち上げる事になります。

再度の会社立ち上げになった訳ですが、家族の反応はというと家内は自分の仕事もあり、それに加え実父の看病、子育てに追われ気持ち的にも余裕がなく関わる事ができないでおりました。

分譲住宅ブーム

共同出資で立ち上げた会社ではモデルハウスを造り、構造内覧会において断熱材、サッシのペアガラス、建築材料となる金物は錆に強いステンレス釘を紹介していきます。また、電力会社の協賛をうけオール電化住宅を全面に打ち出していきます。

14年間で600棟そして離脱

共同出資者と共に順調に売り上げを伸ばし寝食を忘れ駆け抜けてきた14年の間、社員も4名から30名に増えていきました。会社が大きくなるにつれ組織体制になるのは当然のことで、私は経営者の立場になっていきます。これまで自分が担ってきたお客様との打ち合わせ、ショールームへのご案内などは営業の社員が担当になっていきます。もちろん同行してお客様の元へ行くことはありましたが、そこで何か物足りなさを感じてしまいます。

お客様の顔を見て家づくりがしたい。

その頃、陰ながら支えてくれた家内から「社員と家族どっちが大事か?」の究極の質問を受けます。

経営者である以上私には社員とその家族を守らなければならない義務がある。休みの日は娘とは車で遠出などできましたが、6歳下の息子の時はそういう機会がつくれず、建築現場に連れていっておりました。私なりに子供に関わってきたつもりでしたが、家内からすれば私にはわからないストレスがあったんだろうと思います。

そんな中仕事を進めていくうち、共同出資者との意見の食い違いがたびたびあり私は自ら代表の座を退く決意をします。

アフターフォローが出来ずに

棟数が上がるとそれなりにクレームもあり、担当営業が処理しきれない場合は私が出向きます。社内の連携も十分でない状況でお客様に出向いても解決にはなりませんでした。そんな自分に腹立たしく、苛立ちも覚えお客様に申し訳なく建てっぱなしと言われても仕方ありません。

もう、後はない。同級生からの新築依頼

生涯現役と自負していたがもう後はないと決意。2014年4月資本金300万円で天童市に株式会社ヒロ・アーキテック一級建築士事務所を設立します。ほどなくして同級生より家づくりの依頼を受け「おまえの言う、あったかい家ば作ってけろ。大工さんは地元の○○さんば頼むよ。」70坪の3世代7人家族の家を手掛けることになります。農地から宅地に変更するのにほぼ一年かかりました。そして既存の薪ストーブを活かしての家づくりが始まりました。

地元では中心的な役割を担う同級生は、ひとりでログハウスを造り、多趣味でありドラム缶で五右衛門風呂を作り地域の子供たちに体験させたり、劇団の座長を勤め年一回の発表に意欲を燃やしているそんな寡黙ながらも

熱い男です。

お客様をひとりにしない

家づくりは一生に一度の大きな投資であり、あるいはかけなのかもしれません。数ある住宅メーカー、工務店の中から選んで頂けたその責任として、手探り状態のお客様の先を照らす光になり二人三脚で進んでいこうと思ってます。

末永くお客様に役立つ工務店に

ヒロ・アーキテックは私、八鍬宏明が立ち上げた会社です。そして今、息子である宏太がその後を継ぐべく修行をしています。

大切なご縁を次の世代まで。

末永くお客様に役立ち工務店として、今後ともよろしくお願いします。

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